それは、梅雨の真っ只中、蒸し暑い夜のことでした。一日の汗を流そうと、私が浴室のドアを開けた、その瞬間。目の前の光景に、私は凍りつきました。洗い場の白い壁に、今まで見たこともないような、異様な姿の虫が張り付いていたのです。体長は3センチほど。しかし、その体からは、数えきれないほどの、針金のように細長い脚が、放射状に伸びていました。そして、その脚が、まるで意思を持っているかのように、蠢いている。私は、声にならない悲鳴を上げ、反射的にドアを閉めました。心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打ちます。あれは何だ?新種の生命体か?あるいは、異世界からの侵略者か?私は、震える手でスマートフォンを掴み、「浴室 虫 たくさんの足」と、必死で検索しました。画面に表示された画像と、壁にいたあの虫の姿が、完全に一致しました。その名は「ゲジゲジ」。不快害虫の王様として、悪名高い存在でした。私は、浴室のドアを睨みつけながら、どう対処すべきか、必死で考えました。殺虫スプレーはある。しかし、あの俊敏そうな動き。下手に刺激して、部屋の中に逃げ込まれたら、今夜はもう眠れない。私は、一つの決断をしました。熱湯シャワーによる、殲滅作戦です。給湯器の温度を最高に設定し、シャワーヘッドを固く握りしめ、私は再び、戦場となる浴室のドアを、ゆっくりと開けました。ヤツは、まだ同じ場所にいました。私は、数メートル離れた位置から、狙いを定め、一気に熱湯を浴びせかけました。熱湯の直撃を受けたゲジゲジは、壁から剥がれ落ち、床の上でのたうち回りました。私は、鬼のような形相で、さらに熱湯を浴びせ続け、やがて、その動きが完全に止まったのを確認すると、その場にへたり込みました。たった一匹の虫との、わずか数分間の戦い。しかし、それは、私が人生で経験した中で、最も恐ろしい戦いの一つでした。その日以来、私は、浴室の換気扇を、24時間回し続けるようになったのです。